エピソード82 子供は人類の父である
レイ・ブラッドベリの短編小説"Nothing Changes"
主人公は波止場の桟橋の上に店を構える不思議な本屋の客である。
ある土砂降りの雨の日、びしょ濡れになりながら店に入った彼は
昔のハイスクールの卒業年鑑が何冊も並べられた棚を見つける。
その中の一冊を手に取る彼。今からもう何十年も昔、1912年の年鑑である。
卒業生たちの顔写真を眺めながら彼は物思う。
「百人あまりの明るい顔が並んでいる。
きみ、きみ、そしてきみも、とわたしは思った。いい人生だったか?
結婚生活は幸せだったか?生まれた子供はきみに似ていたか?
素晴らしい初恋をして、その後も大恋愛をしたか?そして、その恋の行方は?
今ではほとんどの者が永遠の眠りについているに違いない。
しかし年鑑の写真ではどの若者も熱意に満ちた目をして、
口元にあふれんばかりの笑みをたたえている。」
本人たちは多分気が付いていないだろうけれど、子供たちの目はみんな未来に向いている。
金森幸介はそんな子供たちの輝いた視線の先にある未来を思い描く。
屈託のない子供たちの姿を見るのは喜びだが、同時にやるせなくもある。
俺らはこの子らの未来にちゃんとした社会を残してやれたのだろうか。
いや、残せたのはこの腐ったリンゴのような世界だけだ。
梅雨の合間を縫って、金森幸介はいつもの緑地公園を散歩していた。
平日の昼下がり、公園に人影は少ない。
木立に囲まれた池は昨日までの雨で水かさを増していて
アヒルたちが水面を競うように滑っている。心地よさそうだ。
高いプラタナスの梢からは雨の匂いを宿した雫が時折落ちてくる。
池淵のフェンスを前にしてうずくまる一人の子供の後ろ姿が金森幸介の目に留まる。
黒いランドセルを背負っているので、小学校帰りの少年、たぶん低学年だろう。
少年は池の真ん中を我がもの顔に泳ぎ回るアヒルたちには目もくれずに
目の前のフェンスに釘付けである。
腰をかがめ、ランドセルの肩越しに少年の視線にあわせる金森幸介。
池の淵の草むらに仲間からはぐれたのか、一羽の仔アヒルが戸惑っている。
少年は仔アヒルを引き寄せるために一心に手招いているのである。
人の気配に振り向く少年。金森幸介と目が合う。やんちゃそうな目をしている。
金森幸介、少年に「そのアヒル、飼おてんのんか?」と問う。
少年、怪しい親父の出現に一瞬怪訝そうな顔色を見せたが、
踵を返すや吐き棄てるように巻き舌気味に言った。
「飼おてるわけないやろ」
そらそうやろ。飼おてるリャンガー(餃子二人前)、いや飼おてるわけない。
海千山千のおっさんをほっこり笑わせるとは、こいつはなかなかに達者な子供である。
しかし少年の興味は金森幸介などよりも、アヒルちゃんにある。悪いけど何百倍も。
再び池の方に視線を戻し、アヒルに手招きを再開する少年。
その小さく無邪気な背中を見つめながら金森幸介は心で語りかけた。
「人生はけっこうキビしいぞ。この先辛いことや悲しいことがいっぱいあるぞ。
楽しいこともちょっとはあるかも知れんけど、きっとほんのちょっとやぞ。
けどメゲるなよ。俺はお前らにたいした世界は残してやれんかったけど
いつも励ましているからな。いつでも社会への窓は放たれてるからな。忘れるなよ。
とりあえず未来はお前らのもんや。子供は人類のおとっつぁんや。
B.S.T.や。気色悪いジャケットや。まだアル・クーパーおった頃や。とにかくGood Luckや」
目を閉じ、梅雨時独特の水の匂いを吸い込み悦に入る金森幸介。
と、少年の声が聞こえた。
「おっちゃん、ズボンのチャック開いてるで。」
金森センセイの言に偽りなし。確かにちゃんと社会の窓は開け放たれていたのである。
完全に読めるオチでしたな。